吉田塾での指導(藤本)
指導についてこんにちは。吉田塾渋谷校講師の藤本です。すでに告知している通りですが、吉田塾渋谷校は9月より運営体制が変わり、新代表の清水先生、そして講師の安達先生とともに新しいステージを迎えました。僕自身は渋谷校がまだ原宿校だった頃からこちらにお世話になっているため、教室が内も外もがらりと変わったことに大きな感慨があります。今後も、校舎の中心メンバーとしてますますサービスに力を入れていこうと奮起しているところです。
新たな教室PRの場として、渋谷校としてのブログもはじめていくことになりました。初投稿は、吉田塾渋谷校の指導で僕自身が意識していることを書いてみようと思います。
「講師は生徒には見えない先の目標を見据えていないといけない」
僕は教室に立つ指導者として、常に上記のことを念頭においています。
吉田塾の生徒さんは基本的に中学生・高校生が多いです。従って、生徒さんの達成目標はおのずと定期試験での得点アップや、大学受験での志望校合格というものに偏ってきます。そもそも世の中の塾や予備校はそのために存在するので、他の教育現場でもここが大きく変わることはないと思います。実際、いままでに僕が携わった現場はすべて一様にこうした光景がありました。
が、指導者として学習をリードする立場にある人間が、生徒さんと同じ目標を見つめて(あるいは、同じ目線で)指導を進めていくことには強い違和感があります。分かりやすいのは、たとえば「学校の試験で4択問題が出るからその形式だけやればいい」というのがその例だと思います。あるいは、「英文和訳や英語表現は試験に出ないからやらなくてもいい」、こういった指導態度でしょう。僕はこうした態度——生徒さんの目標を講師自身も最終ゴールに設定してしまい、そのゴールに固執しすぎて教育の本来的な力が発揮されずに終わっているやり方——があまり好きではありません。本当の意味で力を伸ばす可能性は極めて低く、基本的には無意味なものだと思っています。
ところが、これが「対策」という名のもと、公私の両教育現場でまかり通っている現状があるように見受けます。おそらくこういう表面的な「対策」は「慣れ」を期待するものなので、似たような形式に親しみを持つという意味ではなんらかの効果はあるのでしょう。しかし、実際にそのような指導を行ったとき、僕は代替可能なコンピュータになって、言語や思考を剥奪された石の置き物に対して語っているような気持ちになります。
「大学受験講師や塾講師の役割は志望校合格・得点UPだ、だから試験に出ないことはやる必要はない」
こんなふうな原理で仕事をする方は、この業界には少なからずいらっしゃいます。それ自体はその方の崇高な仕事観ですから、他人がとやかく口出しして変更を強制するようなものでもないと思います。しかし僕からすると、効率主義に支配されすぎて、人生のクリティカルな時期をかけて大きな無駄を作り上げるのを助長しているような気がしてなりません。教育は大学受験に受かることが全てでしょうか? 得点が上がればそれで良いでしょうか? 肝心の中身が空洞なままでも「得点が上がったから」という理由で正当化されるものでしょうか? その考えに固執するのであれば、空虚であるような気がします。現場に人が立つ意味はなんだろうと考えます。だから、「日本人は英語ができない」から抜け出せない。この問題については、本人のモチベーションがどうとか、日本語と英語は違うからとか、文化が違うからできないとか、いろんな見方があるようですが、結局は言葉ですから、誰でもできる類のものであるはずです。にもかかわらずそれを実現できないのは、教育機関ないし現場の教え手の指導方針・目標設定にも大いに責任があるはずです。
「指導者は、生徒さんと同じ目線で目標を見ていてはいけない。生徒さんがまだまだ見えていないその先の地平が見えていないといけない。」
ここで、この言葉が意味を発揮すると思います。英語指導者にとって、「生徒さんが見えていない目標」は「使える英語を獲得すること」、これに尽きるのではないでしょうか。「使える」とは単に「話せる」ということを意味しません。さまざまな現場で、必要とされるときに、どんな技能であれ運用できるという水準です。たとえば、大学に入って専門的な論文を読まなければいけないというとき、辞書を使ってでもある程度はしっかり読めて中身がわかる、とすればそれは英語の運用力です。社会に出て会社に勤めたときの取引先に英語使用者がいて、その人とメールや電話である程度円滑に意思疎通ができる、とすればそれも英語の運用力です。
昨今よく言われることですが、日本の英語教育は英語の運用力獲得には向いていません。そもそも教育全体の目的が偏差値教育や受験教育に偏っているというのがひとつの理由だと思います。いかに点数をとるか、いかに受かるか、といった「受験科目」としての学習があまりにも先行しすぎているという印象を、この仕事を始めてからずっと受け続けています。たとえ国自体の方針が変わったとしても、現場の教え手の意識が変わらなければ、バランスの良い運用力の達成は実現し得ないでしょう。
だからこそ、現場の一講師たる自分には何ができるかを考えます。偏差値や得点といったところに重きがおかれがちな「教育」という大きな渦のなかで、最も本来的な「英語」の力を伸ばしたい。この仕事を続けていると、結局そこが自分の使命、そこにこそ自分の存在価値があるのだなと切に感じます。では具体的にどうするのかという点については、次回の投稿で触れてみようと思います。
個々の生徒さんの目標達成をバックアップするなかで、たとえ本人が気づかなくとも、きちんとした英語力がついている。これを自身の目標として、今後も誠実に研鑽に励み、人の成長をサポートするという素晴らしい仕事に取り組んでいきたいと思います。
新しくなった吉田塾渋谷校もどうぞよろしくお願いします。